昭和50年04月02日 朝の御理解
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
確かに願う氏子におかげを授けと、御理解三節に教えておられますが、願う氏子におかげを授けてというところでは、例えば、医者が見放した、薬からも見放されたというような病人でも、奇跡的な助かり。いうならば無常の風は、そこまで来とったのだけれども、その無常の風を向こうに追い返して貰うような働きなどが頂けるのが、金光大神の道だというふうにだけ頂いたんでは、金光大神の道は、非常に浅いものになると思うんですね。ですから、そういうおかげも受けられるんです
。けれども本当の金光大神の教えられる道というのは、願う氏子におかげを授けという、そのもう一つ先に、理解申して聞かせと仰られるわけです、その次には。いうなら無い命でも助けて頂く程しのおかげを受けたら、その後を真の信心になれよと言う事なんです。そこからが本当は金光大神の道だと思うんです。金光大神の道は、無常の風が時を嫌うとおおせられる。だからそこからの信心を頂いてはじめて、無常の風が時を嫌うというようなおかげにもなって来る。それを私は真のおかげだと思う。
為にはまず私は無常の風は無常の風として、受け止めれる信心です。しかも只受け止めるというだけでなくて、御神慮を知る、御神慮を悟る。昨日大口教会の安武先生が久しぶりにやってまいりました。休んでおりましたけれども休んだまま、きたんのない最近のお道の信心を、お互い話合った事でございますけれども。本郷の教会のお父さんに当たります教会長先生が、まだ初代がおられる時にお父さんに対して、親先生金光教の本当のぎりぎりの信心と言うのは、どこをどう頂く事ですかというて質問をされた。
そしたら親先生が仰った事は、御神慮を悟って御神慮に応えまつる事だと教えられた。金光教の御信心は。御神慮を悟って御神慮に応え奉る以外にはないと。神様の深いお心をわからしてもらう。神様のお心をわからせて頂いて、解ったその事に応え奉ると言う事は、それを行じていく以外にはないのだと言う事です。所が又この事の難しいことその広さ深さというものは、限りはないといという意味の事を、今の本郷教会長先生が言うておられるという事です。だから御神慮を悟る。
例えば無常の風が吹く様々な災難難儀に直面する。これ程信心するのにという時には、その御神慮を無視してある時です。神様がこういう辛いこういう苦しい思いをさせてでも、本当の事をわからせたい本当の事をおかげを頂かせたいという、御神慮を悟る時に、いうなら叩かれれば確かに痛いのですけども、悲しいのですけども悲しいけれども有難い。叩かれるその手に縋って神様有難とうございます。私が至りません故にと言うように、お詫びこそすれ、不平など不足など出ようはありません。
先日マルショウ大会の前夜祭の後に、本部から借りて来とりますフイルムを、沢山借りてるその中に、中山亀太郎先生の一日という題の映画を見せて頂きました。古くて声も出ない様に古くなってますけれども、とにかく皆さんも御承知のように、両手がない足は片一方である。もう本当に案山子のような、それこそお母さんの熱烈な愛情、または熱烈な、その後に受けられた金光教の信心によってあそこまで育てられた。
子供を小学校に入れるというだけでも、母親の執念とでも申しましょうか、どこの学校でも断るわけです。そういう手の要る子は私の学校では受け付けられん訳です。そこで転々として子供を見てくれる、子供を学校に預かってくれる学校を探し求められた。それこそおんぶするというてもおんぶ出来んから、箱の中にいれて担うて行かれる訳です。しかも金やら物やらがあるというのではなくて女土方をしながらですから。そしてその子供さん、亀太郎先生を育てられた。
映画の中にも、その事を話ておられる所が、少し聞こえる所がありますけれども。それこそ血の涙の出るような思いを、どれ程したかわからんち言う。それでいて手足が足ろうておる健康な者よりも、素晴らしい字を書かれる。素晴らしい絵を描かれる時計の修繕もなさる。出来ない事は羽織の紐を結ぶ事だけだと言う訳です。着物なんかでも自分でお着になる時にそれは器用な、ちょっと口で噛えてヒョイとこう羽織を後ろにまわされると、ちゃっと肩に掛かっている。
お食事を召し上がるでも割り箸なんかでも、口で噛えて口だけで割り箸を割られて、そして御飯を頂かれるところがありました。自転車にも乗られる。ただ人間業とは思われない、驚くばかりの事が出来られる。しかもお道の信心によって助かられて、沢山の人がどの位中山亀太郎先生の生き方に、力を得た事がわからない。あの人ですらああなんだから、自分達は、不平どん不足どん言うだんじゃないと思うた人が、どの位あるか解らんです。と私は思います。
その先生が終始を自分の懸け守りのように、頂いておられるとことと同時に言うておられる事の中に、運命を愛し運命を生かすと言う事を言っておられます。運命を愛する運命を生かすと言う事その事なんです。無常の風そのままに受けておられる。しかもその無常の風を運命を、人間のギリギリの難儀苦労というものを愛しておられる。その運命をこよない有り難いものと受けておられるという事なんです。なぜかというと神慮がわかられたからだと思うですね。
自分にかけられる神様の願いというものが、両手もない片足である自分にでも、命を下さっておるからには、何か自分で出来る御用があるに違いはないと、一心発起されて様々な事に血の出るような稽古をなさった。信心をなさっただろうと思うのです。そこからとても普通の人では、想像も出来ない様な事が出来られる。しかも世の中の難儀という最大の難儀を身に持ちながら、その難儀を難儀とせずに新たな道を開拓して行かれる。奥様も迎えられた。お子さんも二人恐らく学院を出られたんでしょう。
映画の所ではまだ中学生か高校生ぐらいなお子さんでしたから、恐らく学院を出て、教師の資格をとっておられるでしょう。例えば人に物を書いて上げられる時、また口を開けば言われる事は、運命を愛し運命を生かす事だと。いや運命を愛することその事が、運命を生かす事になるのです。そこからです無常の風に時を嫌わす程の働きというものが生まれてくるのです。だから私は無常の風そのものを本当に有難く頂かなけれは駄目です。昨日安武先生が言ってました。
次々と適齢ですから奥さんの話があるんだそうです。けれども教会としてはようやく日に一人か二人か位は、お参りがある位な所で家内を貰ってもと言う様な気持もあるでしょうけれども。先日の神愛会の時に私が金光教の信心を、あなた方はどういう風に頂いておるか。あなたにとって金光教とは何かと質問された時に、安武先生がそれに対して答えておった事を横で聞きながら、僕に質問されたら僕はこういうふうに答えたいと思いましたと言う事を夕べ話てました。
僕の金光教僕にとって金光教は、女性よりも大事だと思うておりますと言うておる。例えば神様が一生本当の信心をわからせるから、家内を持つなと仰るなら家内を持たんでもええち言うのです。まだ今二十七八か位の若さでです。家内よりも神様の方が大切だというのですから。これは命以上に大切と言う事と同じ事だと思います。これは私もそういう風に申します。金光教という信心は私にとって命だ。いや命以上だという意味と同じだと思うです。まだ二十七才の若さです。
私にとって金光教の信心とは、金でもなければ物でもない異性でもない。それ以上のものだと言っております。だから私は申しました。僕がそれだけの心が開けたらそれこそ奥さんな、決まったごたるもんばいと言うて話しました。無常の風なら無常の風と言うものを、ぽんと受け止めておるです。為には金光教の信心と言うものを、それ程の評価というか頂き方というものが出来る位なおかげを頂かにゃいけません。
どんな無常の風が吹いて来てもです、それを向こうに押しやるというのではなくて、それをまともに受けるという事です。しかも受けただけではない、それこそ運命を愛するというのです。その事に対してお礼を申し上げるというのです。そこからです無常の風に時を嫌わす程しのおかげが頂かれる。それを手前の浅い所で頂きますと、願う氏子におかげを授けと仰せられる程度で頂きますと、信心はなかっても無い命と言われた人が、お取次のお徳によって助けて頂くというのですから。
確かに無常の風を向こうに神様は吹きやって下さる程しの働きも頂ける。そのていどにこの御教えを頂いたんでは、金光大神の道は、そんな浅はかなものではない。もっと深い広い、それには、無常の風を無常の風として、どっこいと受け止めさせて頂けれる信心。どのような運命の下に生まれておっても、その運命そのものを愛する心から、運命を生かすことが出来る。
そこから運命的には駄目かといわれる人であっても、運命を生かして新たな人生。地獄にいかなければならない運命の人でも、極楽行きの道を辿らせて頂く事が出来る程しの信心を教えて下さるのは、金光大神の道だと思うです。金光大神の道はとおっしゃっておられる。それにはまず無常の風そのものを受け止めさせて頂ける力を、私は教えによって頂いていかねばならん。身につけて行かねばならんというふうに思いますね。
どうぞ。